二人の武将|四季のうつりかわりが美しい六日町
六日町で「じょんのび」しましょう。
上杉景勝 直江兼続 二人の武将のゆかりの地を訪ねて「じょんのび」する。
戦国の名主従コンビが生まれ育った六日町を訪ねてみよう。
戦国時代 越後の名主従、上杉景勝公と直江兼続公。
この南魚沼(いよのま)の地でともに研鑽を積み叡智を育み
上杉謙信公が生涯掲げた「義」を尊び、「義」の精神によって怒涛の戦国時代を生き抜きました。
両公の高潔な精神は、混沌の時代を生きる現代人に今日も強く清冽な印象を与え、深く愛され続けています。
歴史と概要
時代は戦国
坂戸城主・長尾越前守政景は、長尾為景としばしば対立関係にあったがのちに和睦し、謙信の姉・仙洞院を娶る。
嫡子・喜平次顕景(のちの上杉景勝)弘治元年(1555)誕生。
5年後永禄3年(1560)樋口与六(のちの直江兼続)は、家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれた。
二人は血を分けた兄弟のように互いに切磋琢磨して雪深い魚沼の地で育ち、永禄11年(1568)仙洞院の勧めにより与六は喜平次の近習となる。
天正3年(1575)喜平次は上杉謙信の養子となり上杉景勝と改名し近習・兼続と共に春日山城に入った。
謙信急死までの4年間、二人は共に公の深い薫陶を受け、利によって動く戦乱の世にありながら「義」を尊び重んずる気骨に溢れた若者に成長し、戦国時代を清爽な風のように生き抜いた名主従である。
現代の通説では、直江兼続の父・樋口惣右衛門兼豊が「薪炭用人」であったという認識が主流になっているが、これは江戸時代の軍記作家・新井白石が著した「藩翰譜」内の記載から広まったものと考えられる。
本書以前に著された古代士籍には兼豊の役職に「御家老」と記されてあり、妻が与板の姫君であったとされることから、当時一介の薪炭用人がわざわざ遠方の姫君を娶ったとは考えづらい、という説がある。
上杉景勝公

坂戸城主・長尾越前守政景の嫡子として生まれた景勝は、永禄7年(1564)政景の急死により10歳で城主となり、以来頑強な上田衆を率いて叔父謙信の関東征戦に従い数々の戦歴を重ねる。
近習の直江兼続とは幼少より実の兄弟のように育ち、共に謙信を戦国武将の鑑として敬崇した。
才気煥発な兼続の良き理解者であり、能弁な兼続とは全く対照を為す寡黙な主君でありながら、謹厳実直な人柄は民草から畏敬の念をもって慕われ、常に「義」の心理を貫いて強者に屈せず堂々と対峙して上杉家の威風を示した。
謙信譲りの「義」によって律する戦陣中の姿に兵達は敵よりも主君を畏怖したという。
質実剛健が服を着て歩いているような、なんともまず生真面目な御仁であったらしい。
直江兼続公

ご存知、時の天下人・徳川家康をして激怒ついでに感心させた「直江状(本状が呼び水となり天下分け目の戦い【関ヶ原の戦い】が起こったとされている)」の筆者。
智勇併せ持つ忠義の名副将として戦国の世に広くその名を知らしめた。
生来の利発さが景勝の母・仙洞院(謙信公の姉)の目に止まり景勝の近習として取り上げられ、21歳という異例の若さで上杉家の執政に任ぜられた。
主君と共に上杉謙信の遺風を尊び義を重んじ、民心を安んじる治政を第一としながら、一生に亘って献身的に上杉家を支え続けた。
兼続の兜の前立てには顔より大きい「愛」の一文字が掲げられており、これは「国の成り立つは民の成り立つを以ってす」という通天存達禅師の教えからなり、兼続生涯の理想であった。
このことは某TV番組でもトリビアとして取り上げられ、現代人にも広く知られるところとなった。
学問を尊敬し、当代一流の高僧たちとの親交を深めた文化人としての並々ならぬ素養に、秀吉は「天下の治政を任じ得る人物」として兼続の人品を武士の典型と絶賛している。
目許涼やか・堂々たる偉丈夫の男前であったという話から「お六甚句」という民謡まで出来た程の人気ぶりを博し、兼続を目当てに当地を訪ねる人も多い。
坂戸山
坂戸山
標高634m。JR六日町駅から正面に見えます。
山全体が大規模な山城という歴史的価値から昭和54年3月12日国指定文化財に告示される。
山麓に魚野川を敷く坂戸山は戦国時代、地の利に長けた難攻不落の山城として機能していた。
坂戸山頂の本丸屋敷、中腹の中屋敷、山麓の城主館、家臣屋敷などの跡は今も残っており、尾根を利用した大小の曲輪や壕跡も多く、雄大な山城としては日本有数の存在。
城主館跡は南北120m東西80mの長方形で土塁や石垣をめぐらした大手門跡がその形跡を残している。
長尾政景公墓所と長尾景勝・直江兼続の生誕碑も山麓部にある。
山頂には天正14年直江兼続の勧請によると伝えられる富士権現が祀られており、毎年6月30日に山開きが行われる。
春は可憐な山野草カタクリ(市の花)や清廉なコブシ(市の木)の花が山全体を彩り、夏は緑滴る森林浴、秋は紅葉、冬は仰ぎ眺めて姿佳し…と四季を通じて地元民・来訪者に親しまれ愛されている山。
近年は若い愛好家が、両公が生まれ共に育った当地を訪ねて古に思いを馳せる姿がよく見られる。
また、城が一度も落ちなかったことから受験生にも人気がある。
国指定文化財 坂戸城跡 電子パンフレットでご覧いただけます。
坂戸城
坂戸城は南北朝後の永正9年上田長尾氏が興ってからはその本城となった。
永禄7年(1564)城将長尾政景の死去により、その子景勝は上杉謙信の後嗣として春日山に移り、坂戸城は春日山城に並ぶ越後の鎮城として上杉氏の番城となった。
以後、お館(たて)の乱での北条氏の攻撃や天正10年(1582)織田信長の進攻にも屈せず無類の堅固さを発揮し、天嶮を誇る名城として人々にその名を知られてきた。
国指定文化財 坂戸城跡 電子パンフレットでご覧いただけます。
銭淵公園
坂戸城の外堀となっていた魚野川が坂戸山裾に当たり大きく蛇行し渦巻いていた「銭淵」。
長尾政景公の死は、ここで奸計に落ちて溺死した、という説がある。
平成8年に河川改修され、銭淵公園となった。
石詰みのお堀を越えて日本庭園風の公園に入ると四季折々の花が訪れる人々を優しく迎え中央に池を配した園内には起伏をつけた遊歩道があり、休日には多くの来訪者で賑わう。
ここに直江兼続公伝世館がある。(画像)
雲洞庵
雲洞庵の土踏んだか。

金城山の山麓にある禅寺で越後曹洞宗四大寺の一つ。
創建は古く養老元年(717)といわれ、その後、衰微した寺を応永27年(1420)守護職上杉憲実が祖父憲定の遺志を継いで再興したと伝えられている。
以来、北高全祝(上杉謙信が最も敬崇した高僧)、通天存達(かの足利学校を首席で卒業した高僧。
正親町天皇に謁見、景勝の伯父)、海雲、新井石禅などの高僧が歴住し、県内外に多くの末寺がある越後一の名刹。
景勝公・兼続公は多感な少年時代をここで学び通天存達禅師に薫陶を受け、共に高潔な精神を養った。
併設の宝物殿は、上杉ゆかりの文献や、禅師が化物を退治した時返り血を浴びたその痕が残る袈裟など、当時の空気を濃く堪能できる興味深い空間。
文化
御実城(おみじょう)太鼓

戦国の世、永禄4年(1561)9月10日辰ノ上刻、信州中島八幡原に布陣せる、武田信玄率いる甲軍鶴翼の陣中は寂として声もなく、ひたすら越軍のこもる妻女山夜襲部隊の戦果はいかにと待ちわびていた。
信州の秋は足早で、しせきも弁ぜぬ濃霧の底から骨を劈く鬨の声、すすきとも見まがう長柄隊の槍先、はいを含みそそき立つ耳のひきつる眼の軍馬の頭が、かかり乱れ龍の戦闘旗を真っ先に飛び出してくる。
新手にかわる新手と怒涛のごとく攻撃する上杉軍団「車懸り」の強襲に、さすがの甲軍も顔色を失った。
しかもこの攻撃隊をあやつる雷かとまがう太鼓の音こそ、越軍中最強と恐れられ、必ず先陣をうけたまわる坂戸城上田衆(六日町地方は当時上田ノ庄と呼ばれていた)の打ち鳴らす陣太鼓であったという。
そして、いつの頃からかこの陣太鼓を御実城太鼓と呼んだ、と語り伝えられている。
ちなみに御実城とは上杉家の呼びならわしで「本城」を意味し、謙信も景勝も「御実城様」と呼ばれ崇拝されていた。
地元・六日町には「御実城太鼓保存会」があり、土地の若者たちがこの勇壮な音を今に伝えている。
民謡 お六甚句
「お六」とは、直江兼続少年時の名・与六の愛称。
若君・喜平次(のちの景勝)には二人の女きょうだいがおり、母・仙洞院と一緒に暮らしていたが、時には喜平次の元へも訪ねて行き、近習・与六に会うこともあったろう。
与六の存在は姫君たちの目にも、聡明で美丈夫な、感じの良い少年として映ったと思われる。
当時の様子を想像しながら、六日町民謡では以下のように歌っている。
♪ 送りましょうか 送られましょうか 寺が鼻まで時雨にぬれて
昔しゃお六と 昔しゃお六と桂姫
♪ 月がでたぞえ 木影に入ろうか ままよ渡ろか 坂戸の橋を
お六甚句で お六甚句で水鏡
♪ 吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い 心細かな 縮のあやを
織って着せたや 織って着せたや主が肩
♪ 百姓大名じゃ 兼続様は 尻をからげて田草も取りゃる
峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和
♪ おらが娘の きりょうを見やれ 燃えて溶かした 高嶺の雪を
袖にすくって 袖にすくって玉の肌
♪ お六恋しや 姫様桂 あえぬこの身が 川瀬をこがす
蛍呼ぶなら 蛍呼ぶなら寺が鼻
毎年7月の行事「兼続公まつり」(旧称 六日町まつり)の大民謡流しでは、「お六甚句」で約2,000人もの市民が踊り、祭を盛り上げる。
地元では小学校高学年よりこの踊りを習得し、中学校の体育祭では伝統行事として〆めに全校生徒が総踊り、長じて六日町人は誰でも踊ることが出来るようになる。

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